【イベント】木工家ウィークNAGOYA

 毎年恒例となりました「木工家ウィークNAGOYA」が今年も6月2~4日に開催されます。須田は6月3日に愛知芸術文化センター(名古屋市東区東桜1-13-2)にてイベントに参加致しますが、今回、開催に先立って以下のコラムをウィークのホームページに寄稿しました。本稿はその転載となります。※イベントの詳細はこちらより

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「木工家の時代を考える」 須田 賢司

 

はたして今は、そしてこれからも木工家の時代だろうか。

 

この原稿を高崎から東京に向かうJR車中で書き始めた。発車前のホームを見渡せば、コンクリート、スチール、アルミニウムそしてガラスにプラスチック。見事に木はない。車中に目を転じても同様である。私の小さいときは、ホームのベンチも車内の床も駅舎も木造だった。日本は欧米の「石の文化」に対して「木の文化」と言われたものだ。何もこんな卑近な例で証明するつもりもないが、しかし事実として身の回りから木で作られたものはなくなっている。

 

工芸の、言い換えれば人々の美しいものづくり歴史が語られるとき、陶芸や、漆芸などばかりが注目されることに木工に長く携わる者として常々不満に思ってきた。もちろん土器の歴史は長いだろうが、木に手を加えて何か有用なものを作る歴史は、その加工性の良さや、焼成など不要なことからもっともっと古からあったはずである。

 

先日福岡市埋蔵文化財センターで市内の雀居遺跡から発掘された「案(机)」を見る機会があった。年輪年代学で100AD頃と伐採年がわかっている貴重な木工品で、間口60センチ余りの文机のような家具である。基本的には全く現代と変わらぬ指物としての完成形を示している。これ以降私たちが古典とする正倉院の木工品の時代を経て、現在まで木工の歴史は続いてきた。

 

しかしここで「現在まで」と言えるのだろうか。見渡せば先のような状態で、これは普通の家庭内にあっても同様なのではないだろうか。

 

車両がアルミになるのは軽量化のためであったり、火災に対する安全性であったりするのだろう。また規格化されたベンチは安価に大量に供給できる。建物にしてもしかりである。駅舎は高層化、防災上木造は駆逐された。住宅も規格化された新建材によって工期短縮や耐震性が高まるという。今や現場で鉋を使わぬ大工もいる。

 

私たちの世代がこの仕事を始めたときそのように木工を取り巻く環境が大きく変わりつつあるのを間近に見て、これではいけない、大量生産へのアンチテーゼとして、もっと人間らしい暮らしを取り戻そう、という気持ちが根底にあったことは事実である。多くの木工家は高度成長の中で経済合理性では計れない生き方として選択した。

 

しかしこの21世紀初頭の現在、木のない暮らしはあまりにも当たり前になってしまったように思える。

 

そもそも木はたとえ同一の樹種であっても二つとして同じものはない。色も硬さも反り方も違う。工業的ラインには乗らない素材なのだ。また燃えるし劣化もする。これらが冒頭述べた状況を生み出した。と言ってその工業化を単に否定するつもりは毛頭ない。これは人々の努力で獲得した「近代という時代の果実」であり、平等性が高まり民主という理想形の一つに近づいたことは事実である。だからこそこの現代において木でものづくりをする木工家について考えてみたい。

 

私は100年以上前祖父がこの仕事を始めた家庭に生まれた。祖父の時代、建物をはじめ身の回りは木で作ったものに囲まれていた時代である。だから祖父は実用品を作っていた。職人の世界と言ってよい。ただどんなものにも上手(じょうて)と下手(げて)があるが、入門した師が当時の一流木工家で、祖父も腕もよかったためいいものばかりを作っていたが、やはり「実用品」という性格が強い。

 

しかし特に戦後、状況は変わり実用としての木工品の時代ではなくなりつつあった。その結果が冒頭の状況に結びつくのだが、そこに至る時間を生きた世代として父がいる。父がその仕事の最盛期を迎えたころ世間は工業化が進み生産性の極端に低い手作業による指物は社会的生産の一線からの退場を余儀なくされた。その場合それまでの木工への携わり方が、単に口を糊するためだけのものであったなら、簡単に職を変えればいい。しかし父にとってその父やそのまた師から受け継いだ木工の技とその世界は簡単に捨て去れるものではなかった。

 

そこで経済的体系の外で「作品」として木工に取り組むことになる。その時代に漸く確立してきた「工芸」概念に基づく「木工芸」としての生き方である。私はその結果的に未完で終わる父の新しい生き方のもとで育ち自然とこの道に進んだ。この道とは「木工藝」の道である。

 

それは実用としての木工ではもはやない。「使おうとすれば使えます」という世界である。しかしこの現代において、木工という技術体系は極めようとすればこの道しか残されていないように私には思える。私たちには、人智が及ばぬ自然が作り出した替えがたい唯一の存在としての美しい木=材木がある。また無名の人々の営々たる努力の結果として今の高度な木工技術体系がある。また身近に置くものに対する繊細で感情豊かな対し方がある。これらのこと=木工文化を知ってしまい魅力に取りつかれた者にとって、その材木の存在自体に畏怖の心を持って(ここに銘木が生まれる)、新たなものとして生かすには、自律的に存在できる「作品」として、確実な技術によって作るしかない。言い換えればすでに職業としての木工家ではない。

 

もとより木への取り組み方は人それぞれである。しかし私が木工を始めたころから仲間との大きなテーマは「価格」であり「生活の糧」であった。先述の通り私たちの世代には経済合理性をある意味では無視して「貧に甘んじ、木工を『職業』として意識しない」節がある。これはその世代の特徴でもあり特権でもある。右肩上がりの高度成長の時代だからこそ、そう思うこともできたのだろう。しかしその経済成長が木工家をそれまでの木工家として立ち行かなくしたのだから皮肉なものである。わが家の貧は相変わらずだが、しかし、いまの生き方は自分なりには筋を通した結果である。木工に携わる者の一つの生き方だと思う。私は木工藝家を標榜している。

 

いま木工家を名乗る若い人々には私(たち)以上に合理的に職業として、木工に取り組んでいるようにも思える。それは木工工場の作業員ではなく新しい自立した「木工家」の誕生なのだろうか。さらに木工家は果たして合理的に、経済的に存在できるのだろうか。そもそも木工がその合理という概念と相反すると思えてならない私には、若い木工家の生き方に注目している。

 

私には残念ながらこの道を自ら選んだというはっきりしたきっかけはない。だからこそ自分にとっての木工は何なのかを常に問いかけ考えてきた。「木工家」とは生き方と思考の反映としての言葉である。