【新聞記事】日本経済新聞-“長屋流儀”で集う木工仲間◇須田賢司

 6月23~25日に開催される“木考会結成40周年記念回顧展「木考会に集って40年」”に先立ち、今から36年前に日本経済新聞上で木考会について、須田が執筆した記事が見つかりました。※イベントの詳細はこちらより

 

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 日本経済新聞 昭和56年(1981年)3月3日(火曜日)文化

“長屋流儀”で集う木工仲間◇月に1度、気ままな談議に花が咲く◇須田賢司

 

―木工は自己完結型仕事

 

 和洋家具や指物、木彫り、あるいは身障者、老人用の生活用具など、さまざまな立場で木工にたずさわる仲間が集まって「木考会」を作ってからまる四年になる。

 

「木工を考える会」というのが正式名称で、会といっても、毎月一度集まって、木工の仕事についての悩みを話し合ったり、技術的な情報交換をしたり、木工談議に花を咲かせるだけ。時折、作品の展示会を開いたり、材木屋、鍛冶屋などの見学会や材料、道具の共同購入もするが、そのつど趣旨に賛成の者だけが参加し、言いだしっぺが責任者になる、という気ままなグループである。

 

 父の後を継いで指物師になった私も感じることだが、木工は他人に左右されず作品完成まで自分一人でできる自己完結型の仕事である。それが魅力で木工を選ぶ人が多いのだが、反面、仕事場に一人でこもり、人に会う機会も少ない内向的な仕事だけに、“木が相手だと気がめいる”こともある。そんなとき、気分を晴らす相手がほしくなる。私の場合は身近に父や、父の仕事仲間がいたが、いずれもその道の大先輩ばかりで、気のおけない相談相手というわけにはいかなかった。

 

 そんな若い木工仲間が、気楽に話し合える場を、と声を掛け合って集まったのである。

 

 最初の会合は五十二年五月二十八日。会場は東京都板橋区徳丸の「でく工房」だった。家電メーカーのデザイナーを辞めて身障者用の生活具などを作っている同工房の光野有次、竹野広行さん、職業訓練校を出て独立したばかりの血脇正裕さん、その同期生の高野勝文さん……初対面の人も含め十二人だった。

 

 初対面といっても年齢も二十歳代から三十歳過ぎと似通った木工仲間。酒を飲みながらの、のんびりした集まりの中で、思った以上に話がはずみ、それ以後、毎月第三土曜日に集まるようになった。途中から会場は変えたが、毎回参加者が会場費として一人三百円を払い、余れば飲み代に回す。会費などをストックしないのは、いつでもきれいに解散できるようにとの考えからだ。

 

 毎月の集まりでの話は、木工の技術的な情報交換、木工に対する取り組み方など、さまざまだが、お互い何か得るものがある。

 

―新宿などで「展示会」

 

 材木を探すにも、私は父の代から行きつけの銘木屋に偏りがちだったか、仲間は積極的にいろいろな材木屋に飛び込み、「こんな木がある」と教えてくれる。また丸太が欲しいが一人では使い切れないようなときには「だれかこの丸太使わないか」と声を掛け、数人で一本を買う。道具でも特殊なカンナなど一丁では鍛冶屋が打ってくれないこともあるが、三、四人で頼むと注文がきく。

 

 “実利的”な情報交換ばかりではない。親睦をかねてお互いの工房を訪問したり、うちそろって材木屋や木工展の見学に出かけたりもする。最近では有志で「朝鮮木工研究会」を作り、李朝の木工の勉強をしている。

 

 木考会の活動で大きなものは、やはり展示会の開催だろう。何度か会合を重ねるうちに「みんなの作っているモノを一カ所に集めて見てもらおう」という声が強まり、五十三年八月、東京・新宿の伊勢丹で開かれた「くらしの中の自然展」に会員七人と、でく工房が出品した。その後、同年十二月、東京・銀座の松崎画廊、昨年五月、池袋パルコで木考会有志主催の「木の仕事展」を開いた。

 

 展示会開催となると、半年、一年前から出品者が集まり、会の目的、展示の段取りなどを何度も話し合い、全員の合意したところで動き出すことになる。開催期間中は、出品者が交代で会場に出、入場者と積極的に話し合い、道具を作る立場、使う立場の交流をはかっている。

 

―脱サラ準備の人も参加

 

 会長も事務局もない子供の集まりのような木考会だが、発足一年後の五十三年四月から毎月、手書きのコピーの機関誌「黙木」を発行している。といっても、「言いだしっぺが責任者」の原則に従い、メンバーの一人、竹野さんが自発的に出しているのだ。原稿集めから機関誌の会員への発送まで一人できりまわし、我々はコピー代と郵送料を出すだけだが、竹野さんは「オレは好きでやっているんだ」と平然としている。

 

 十二人で始まった木考会も、展示会で会の存在を知ってやってくる日曜大工や脱サラ準備のサラリーマン、女性などが加わり、今では延べ百人近くになっている。一、二度顔を出しただけで来なくなる人もいるが、仲間の多くは木工のプロ、あるいは将来木工で独り立ちしたい、と考えている人たちである。

 

 いずれも、好きだから選んだ木工の道である。家具材といっても樹齢百年から数千年という木ばかりである。「オレのようなちっぽけなヤツがむだに使ってはもったいない」という木に対する畏怖感は皆持っている。木を前にして、自分の力など大したことはない、と毎日思い知らされているのだ。

 

―先生と呼ぶのはゴメン

 

 そんな思いで仕事をしていても「木工では食えない」というのが大方の仲間のかかえている悩みだ。仲間の中には「手取り十五万円の月収が目標」という者がおり、三十歳を過ぎても独身という人がザラにいるのを見ても明らかだろう。工場の大量生産家具より、手仕事の一品生産の方が材料も半端になり、設計図一枚ひくのにも時間がかかり、値段も高くなる。陶器ブームで高い茶わんを買う人はいても、日常生活用具である木工製品に高い金を出す人はまだ少ないのだ。

 

 だが、自分の生き方として木工を選んだ以上、食えるものにしていかなくてはならない。仲間の中に身障者向けの自助具に取り組んでいる女性がいるが、彼女は保母であり、木工はアルバイト的にやっている。木工の自助具製作が社会的に十分認められていないからだが、それで自立できるのが当たり前にしなければ、と四月から保母をやめて自助具製作に専念するという。そういう決断が必要なのだろう。

 

 隣の家にちょっとしょうゆを借りに行くように道具を融通しあったり、知恵を出し合っている木考会は、いわば“木工長屋”である。ずっと顔を出して“住人”になるのもいいし、たまにブラッと遊びに寄るのもいい。うるさい大家もいない。それなのに外から見ていると木工の一大勢力団体とみえるらしく、中には勘違いして「木考会の会員です」と吹聴している人もいる。新しく顔を出す人の中には古くからいる者が偉くみえるのか、「先生」と呼ぶ人までいる。「オレ」「お前」の付き合いが長屋の流儀である。お互い、先生などと言い出したらおしまいだ。木工仲間の出会いの場であり、広場でもある、という初心に帰ろうと自戒しあっている。(すだ・けんじ=木工芸家) 

 

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本記事は“でく工房”の光野有次氏(http://mitsunoy.jugem.jp/)が保存されていました。ご提供頂き深く感謝致します。